チャップリンの映画 『 独裁者 』 (1940) は当初、
ちがったエンディングが予定されていた。
独裁者は没落し、戦争が終わり、迫害を受けていたユダヤ人と
兵隊たちが手に手をとり、抱き合う。
中国を侵略し、殺戮を繰り返していた日本が戦争をやめ、
代わりに空からおもちゃをばらまいて、中国と仲良くなる。
・・ それが最初の構想。
でも、チャーリーは考えた。
当時、まったくそんな雰囲気のかけらもない軍人、軍隊、指導者を見て、それでは独裁者たちに対する市民の怒りが
伝わらない。
だからそのエンディングはやめた。
チャーリーは中国人でもないし、ユダヤ人でもない。
でも、迫害を受ける彼らを助けるため、この映画に命をかけた。
それは、人間としての行動。
「 音声なんか不要なもの 」 として、トーキー映画を嫌っていた
チャーリーが、そんな自分を投げ出して、それまで何十年も
かけて築き上げてきたキャラクターとコスチュームにバイバイし、
それまで決して開くことのなかった口を大きく開けて
世界に向かって初めてしゃべった。
チャップリンの最後の演説のシーンに注目。
しゃべる前に沈黙し、しゃべり始める時の表情に注目。
彼は 「 俳優チャップリン 」 であることを捨てている。
軍国主義の非人間性をチャップリンが、アーティストではなく、
ひとりの人間として、力の限り訴えた 『 独裁者 』 は日本では
上映が禁じられ、世界的な傑作は世界での公開から20年も
経った1960年になってから。
戦争が終わっても、権力者たちが変わらず、思想をコントロール
したい日本政府は60年経っても100年経っても変わらない。
今でも、国会議員たちがハエみたいによってたかって映画を
試写し、自分に都合の悪い映画は上映禁止にする。
彼らはその考え方がすでに独裁者。
彼らに市民の見たいものを規制する権限はハエのツメのアカ
ほどもない。
彼らに人の自由を奪ったり、命令したり、芸術の鑑賞を妨げる
権利はなく、そんなことをすることが犯罪。
腐ったことばかりしているからハエになった。